イエズス会聖ヨハネ修道院
イエズス会聖ヨハネ修道院 | |
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西日本霊性センター イエズス会聖ヨハネ修道院(黙想) | |
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北緯34度26分05.6秒 東経132度27分01.4秒 / 北緯34.434889度 東経132.450389度座標: 北緯34度26分05.6秒 東経132度27分01.4秒 / 北緯34.434889度 東経132.450389度 | |
所在地 | 広島市安佐南区長束西二丁目1-36 |
教派 | カトリック教会 |
ウェブサイト |
www |
歴史 | |
過去名 | 長束修練院 |
創設認可 | 2005年 |
創設日 | 1938年 |
創設者 | フーゴ・ラッサール |
出来事 | 1945年 被爆 |
過去の司教 | ペトロ・アルペ |
建築物 | |
文化財指定 | 被爆建物登録 |
文化財指定日 | 1993年 |
設計者 | イグナチオ・グロッパー |
様式 | 木造・鉄筋コンクリート造 |
閉鎖 | 2025年 |
管轄 | |
教区 | カトリック広島司教区 |
西日本霊性センター イエズス会聖ヨハネ修道院(黙想)(にしにほんれいせいセンター イエズスかいせいヨハネしゅうどういん(もくそう))は、かつて広島県広島市安佐南区長束にあったカトリック教会イエズス会の修道院。
1938年イエズス会長束修練院(ノビシャド)として開院[1]、2005年から現在の修道院となった[2]。長束黙想の家、長束修道院[3]で知られた。2025年一旦閉鎖[3]。
1945年広島市への原子爆弾投下時では爆心地から約4.5kmに位置しイエズス会の救護拠点となった[1][2]。広島にあるキリスト教関連施設としては唯一の被爆建物[4]。
沿革
[編集]経緯
[編集]イエズス会は1908年から日本に再渡航し上智大学の運営など教育にも尽力した[5][6]。
カトリック広島司教区は1923年(大正12年)大阪教区から中国地方の5県が広島使徒座代理区として独立した形で始まる[7][8]。管轄はイエズス会ドイツ管区に委託されそこから宣教師が派遣され、代理区長館は当初岡山に置かれた[7][8]。1925年(大正14年)広島市草津にカトリックの学校を作る計画があったが、呉海軍工廠があった[注 1]ため外国人の関わる学校の建設許可は降りなかったという[9]。
1929年(昭和4年)フーゴ・ラッサール神父が来日する[10]。上智の学生にドイツ語を教えることよりも社会的なキリスト教的意識を教えることの方に興味があったラッサールは、東京の貧民街であった三河島に上智カトリック・セツルメントを設立し下町を拠点に活動生活した[10][10]。1935年(昭和10年)ラッサールはイエズス会日本管区上長に任命されるも、上智大学内SJハウスを拠点に活動しなければならなくなった[5]。そこでラッサールは東京のど真ん中より広島での活動を選び、日本管区本部を広島に移し幟町天主公教会を拠点とした[5]。
広島にイエズス会の修練院が建てられたのはこうした背景にある。1938年(昭和13年)ラッサールによって当時安佐郡長束村に長束修練院が建てられた[11][9]。
同1938年上智大学構内の修学院と哲学院が広島市観音に移される[9][12]。1939年(昭和14年)広島代理区長館も広島に移される[7]。1942年観音の施設が売却され長束修練院に統合、あるいは哲学院はまた東京に戻っている[12][9]。
被爆
[編集]
太平洋戦争中、連合国出身者は敵性外国人として抑留された。ただ外国人でも同盟国のドイツ人や中立国のスペイン人あるいは白系ロシア人[注 2]などは免れていた[6]。
イエズス会としては、1945年1月他の都市は空襲による被害がある中で広島だけそれがないことから、東京のイエズス会神学部・哲学院が長束修練院に疎開[注 3]していた[9][15]。同年8月1日、長束修練院から一部の神父が帝釈峡へ隔離されている[6]。そして同年8月6日被爆することになる。以下その時点で長束にいたと判っている[6]神父・修道士のうち外国人のみ列挙する。
- 院長・修練長
- 副院長
- パウロ・ネーベル(Paul Nebel) : ドイツ領(現フランス、のち帰化し日本名岡崎裕次郎)[8]
- 司祭
- 修道士
イエズス会としては更に、幟町教会にラッサール、クラインゾルゲ、チースリク、シッファーの神父4人[16]、楠木町の援助修道会三篠修道院にコップ神父がおり[注 4]、あわせて外国人16人が被爆したことになる[8]。
午前8時15分、被爆。爆弾による閃光から10秒ほど遅れて爆風が到達した[15]。爆心に近い方である南側窓ガラスは爆風により割れ窓枠も破損し、ドアはへし折られ、礼拝堂南側の柱が3本ほど折れ、天井は凹み、張られたタイルは吹き飛んだが、倒壊を免れた[15]。周辺の山では熱風により山火事が発生したが、ここでは火災は発生しなかった[15]。中にいた人間は割れた窓ガラスなどで怪我をしたが軽症で、重症を負ったものはおらず無事であった[15]。
画像外部リンク | |
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広島平和記念資料館が所有する原爆の絵。 | |
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1時間後には市街で被爆した被爆者がここまで避難してきて、同日午前9時半には数千人規模にまで増えた[15][14]。アルペ院長はマドリード・コンプルテンセ大学で医学(外科)を学んでいたこともあり、修練院を救助所として用い被爆者を受け入れることを決めた[20]。院を掃除し物資を調達し、そして他の神父と共に重症の被爆者を板で作った担架やリヤカーで運び入れ手当てした[8][20][11][21]。その様子は他の日本人に目撃されており、その例として原爆の絵が残されている(右絵)。また井伏鱒二『黒い雨』にも描かれており「山本駅の北側にあるカトリック教会」とはここであるとされる。
三篠修道院は被爆により壊滅したためコップと修道女たちは避難し、同日正午ごろ長束に到着し医療活動に従事した[注 4][22][17][8]。
同日午後4時頃、幟町教会の神父らが“ASANO PARK”(縮景園)へ避難し重症を負っていることを知る[8]。救出に向かうことになったものの、当初は外国人であることから奇異あるいは憎悪の目で見られると市街に入るのをためらうものもおり、実際救助中に偶然出くわした日本人将校から落下傘で降りてきたアメリカ兵と誤認されて斬りかかれ、ラウレスが将校にしがみついて必死にドイツ人だと釈明したという[8][15]。暗闇の中で運び込み、翌8月7日朝5時に長束に到着した[20]。
8月7日はイエズス会再建記念日[注 5]であった。その朝のミサは、聖堂の畳の上に負傷者を寝かせたまま行われたが、感動的なものであったという[20]。同日以降も、縮景園に残っていたクラインゾルゲらを始めとする多くの被爆者を救助した[15]。負傷者は周辺の農家にも横たわっており、それもアルペが回診している[15]。
その後、広島警察が軍部の騒乱を恐れて神父たちに移動指示を出したため、一時的に避難し8月20日前後には帝釈峡[注 2]にいた[19]。
救護活動は翌1946年春まで続けられた[2]。救護人数は約100人とも150人以上ともいわれる[2][20][15][14]。ジーメスは手記の中に、長年の布教活動よりもこの被爆後の救護活動によって周りの人々からのキリスト教に対する好意が得られるようになった、と記している[15]。長束修練院自体は同年夏までに建物修築を完了している[23]。
その後
[編集]昭和時代におけるイエズス会日本人会員の初期養成はほぼすべてここで行なわれていた[21]。職務についていた神父の一人に結城了悟がいる。
2005年、修練院の機能をより充実させるため東京都練馬区上石神井に移されて、ここは修道院となった[21][11][2]。
東日本大震災以降の耐震調査で、新館を中心に大規模な耐震補強が必要と判明した[3]。またイエズス会日本管区においては神父や修道士が減少しており、関連する教会・学校含めて人員の見直しが図られるようになった[3]。そのため2025年3月末で長束修道院はいったん閉鎖することになった[3]。
建物自体が貴重であることから、イエズス会日本管区本部や日本の神父たちでプロジェクトチームを発足、今後の活用について検討しているという[3]。
構造
[編集]建物
[編集]主要施設は木造三階建て[11]、新館のみ鉄筋コンクリート構造。3つの棟からなり、うち本館礼拝堂が初期からあり戦後補修され、1960年ごろから宿泊施設など残り2棟が整備された[1]。設計者は教会建築家のイグナチオ・グロッパー修道士と言われている[24][15]。
昭和初期に建てられたキリスト教関連施設でありながら洋風建築ではなく、漆喰・瓦葺き・畳敷きの和風建築が採用されている[11][1][25]。これは建設当時大東亜戦争が始まり戦時色が強くなった時代背景の中で、当地が熱心な浄土真宗信仰(安芸門徒)地であることから、周辺に配慮し和風にしたとされている[11][1]。また戦前からある本館礼拝堂および三重塔は、1945年広島市への原子爆弾投下の際に倒壊から免れた被爆建物でもある[11][1]。当時の神父たちの手記によると、グロッパーが日本の地震を過大に考え当時の一般的な日本家屋より頑丈な骨組みで設計したため倒壊しなかった、という[26][15]。ただドイツ人のグロッパーが和風建築手法を知っていたか疑問が持たれており、グロッパーが設計したのは基本構造のみで他は日本人大工に任せていたと推定されている[25]。
建築様式としては近代和風建築に分類される[25]。懸魚・舟肘木や仏塔っぽい鐘楼といった和風様式に十字架が付いている[1]。3つの聖堂・3つの集会室・24の個室からなる[27]。聖堂は書院風で床の間まである一方で、天井は高く個室はイスやベットでの生活を前提とした作りになっている[25]。竣工当時は、北側にパン焼き小屋や、ワイン庫も備えていた[1]。建物の裏手には、庭園と墓地がある。庭内には、2003年に作られたペドロ・アルペ元イエズス会総長の胸像がある。
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本館と木村館(右側)
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新館
遺跡
[編集]当地は小高い丘の上にあり、同敷地内には師イエズス修道女会広島修道院がある。
それら修道院の北側には長束修練院裏遺跡と呼ばれる遺跡包含地があり、弥生土器が発見されている[28][29]。
交通
[編集]脚注
[編集]- 注釈
- ^ 広島自体も陸軍第5師団の拠点であった。
- ^ a b 白系ロシア人も抑留から免れていた。被爆後一時帝釈峡に移されたのも同様。広島原爆で被爆したロシア人参照。帝釈峡で受け入れた人物によると、1945年秋まで滞在していたという[13]。
- ^ ルーメルによると、クリスマスの夜には空襲は休みだと思っていたが東京では来たため、疎開するしかなかったという[14]。
- ^ a b 1936年創設の旧三篠町現在の西区楠木町にあった女子修道院。元々煉獄援助修道会日本教区はイエズス会広島教区が呼び寄せたことにより広島で発足した。グロッパーが設計した修道院は被爆の爆風で倒壊はしなかったが火災により全焼した。当時フランス人修道院長は結核により広島市祇園町の病院に入院、イギリスとベルギー出身の修道女は敵国人として抑留されており、被爆時にはフランス2・イタリア2・アイルランド1・日本2の計7人の修道女と、コップ神父の計8人がいた。当時の外国人修道女は2005年までに全員死去、日本人2人のうち1人は2019年死去、もう1人は2019年現在で存命[15][8][17][18]。
- ^ 1814年8月7日教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィデイ』によって41年ぶりにイエズス会の復興が許可された。
- 出典
- ^ a b c d e f g h “イエズス会長束修練院”. ヒロシマをさがそう(NHK広島). 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c d e “広島・長束修道院 被爆後 救護所に 当時を忍び7日から集い”. 中国新聞 (2016年8月1日). 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c d e f “長束修道院、3月末で閉鎖 広島市の本館被爆、負傷者救護に尽力 老朽化や体制見直し受け”. 中国新聞 (2025年2月25日). 2025年6月19日閲覧。
- ^ “被爆建物リスト”. 広島市. 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c “世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vo.1 No.2 3月号” (PDF). 世界平和記念聖堂献堂50周年実行委員会. 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c d “イエズス会16人被爆 ドイツ人神父ら 広島の惨禍 発信”. 中国新聞 (2019年11月12日). 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c “教区概要”. カトリック広島司教区. 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s “外国人神父たちの「8・6」 16人の手記や歩みを追う”. 中国新聞 (2019年11月12日). 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c d e f “広島大会記念講演「被爆70周年、私にとっての広島とは?」”. 上智大学ソフィア会. 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c “世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vo.1 No.5 6月号” (PDF). 世界平和記念聖堂献堂50周年実行委員会. 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g “神父が治療 被爆者ら救う イエズス会長束修練院(現・長束修道院)”. 読売新聞 (2010年1月24日). 2011年11月13日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b “カトリック観音町教会(広島教区)”. 女子パウロ会. 2019年12月29日閲覧。
- ^ “白系ロシア人の奇跡 忘れられた被爆の苦難”. 中国新聞 (2009年9月3日). 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c “Der Tiefpunkt des Daseins” (ドイツ語). ディー・ターゲスツァイトゥング (2003年8月6日). 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n “The Atomic Bombing of Hiroshima by Father Johannes Siemes” (英語). the War Time Journal. 2019年12月29日閲覧。
- ^ “The Miracle of Hiroshima – Jesuits survived the atomic bomb thanks to the rosary”. CNA (2015年8月9日). 2020年6月8日閲覧。
- ^ a b “修道女、広島の献身 欧州出身の5人が被爆後に看護(1/2)”. 朝日新聞 (2009年8月4日). 2011年11月26日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “修道女、広島の献身 欧州出身の5人が被爆後に看護(2/2)”. 朝日新聞 (2009年8月4日). 2011年11月26日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b “被爆神父 十字架残す 「あの日」も抑留時も保持 救護の姿 「原爆の絵」に”. 中国新聞 (2019年11月18日). 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c d e “原爆投下の中で―医師として、神父として”. 霊性センターせせらぎ. 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c “長束修練院の歴史”. イエズス会 聖ヨハネ修道院 西日本霊性センター. 2011年11月15日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 戦災誌 2005, p. 1023.
- ^ “「長束修練院」被爆後の写真発見 「礼拝堂の外壁の柱折れ、扉もつぶれ…」神父の手記と合致”. 中国新聞 (2014年7月31日). 2019年12月29日閲覧。
- ^ 石丸紀興『世界平和記念聖堂』相模書房 1988年 p.17
- ^ a b c d “イエズス会聖ヨハネ修道院”. アーキウォーク広島. 2019年12月29日閲覧。
- ^ ジョン・ハーシー『ヒロシマ』法政大学出版局 1949年 p.16
- ^ “黙想の家案内”. 霊性センターせせらぎ. 2013年1月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月29日閲覧。
- ^ “遺跡地図” (PDF). 広島県教育委員会. 2019年12月29日閲覧。
- ^ “広島市(旧・佐伯郡湯来町を含む)” (PDF). 広島県教育委員会. 2019年12月29日閲覧。
参考資料
[編集]- 被爆建造物調査研究会『被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る-未来への記録』広島平和記念資料館、1996年。
- 広島市『広島原爆戦災誌』(PDF)(改良版)、2005年(原著1971年) 。2019年12月29日閲覧。
- 公式ホームページ