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仮谷忠男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仮谷 忠男
かりや ただお
生年月日 (1913-05-30) 1913年5月30日
出生地 日本の旗 高知県幡多郡上灘村(現土佐清水市
没年月日 (1976-01-15) 1976年1月15日(62歳没)
死没地 東京都港区赤坂 赤坂病院
所属政党 自由民主党佐藤派田中派
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
日本の旗 第37代 建設大臣
内閣 三木内閣
在任期間 1974年12月9日 - 1976年1月15日
選挙区 高知県全県区
当選回数 5回
在任期間 1960年11月20日 - 1976年1月15日
在任期間 1958年3月23日 - 1960年10月11日
当選回数 4回
在任期間 1947年 - 1960年
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仮谷 忠男(かりや ただお、1913年5月30日 - 1976年1月15日)は、日本政治家衆議院議員(5期、自由民主党)。建設大臣(第37代)。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問[1]

来歴・人物

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高知県幡多郡上灘村(現土佐清水市)出身。高等小学校卒業後、家業の農業に携わる傍ら、漁師もしていた[2]清水町助役、以布利漁協組合長、県漁連副会長[3]を経て1947年より高知県議会議員を4期、同議長も経験して超党派県政をスローガンに公正円満な議会運営で与野党問わず議員の人望を得た[2]1960年第29回衆議院議員総選挙高知県全県区から自由民主党で立候補し、当選する。自民党では佐藤派田中派に所属する。農林政務次官建設政務次官、衆議院農林水産委員長を歴任し、田中改造内閣科学技術庁長官を要請されたが辞退し、1974年三木武夫内閣で建設大臣に就任する。

建設大臣としては、石油危機による本州四国連絡橋建設凍結を解除した。

1975年12月、大三島橋の起工式に出席した際、喘息をこじらせ、建設大臣在任中の1976年1月15日東京都港区赤坂の赤坂病院で急性心不全のため死去、62歳[2]。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈、正三位に叙される[4]。なお、後任の建設相には同じ田中派の竹下登が就任した。

舌禍事件

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建設大臣在任中の1975年10月12日、自民党青森県連のパーティーで「私はここでは国会答弁のようないい加減なことは言わない」と舌禍事件を起こし、野党から反発を招き、国会が空転した。10月17日に仮谷は国会で遺憾の意を表明し、国会は正常化した。

この事件では仮谷が一方的に批判されることが多いが、一方で野党には舌禍事件まで仮谷の「国会答弁におけるいい加減さ」を見抜けなかったという批判がある。


当落 選挙 執行日 年齢 選挙区 政党 得票数 得票率 定数 得票順位
/候補者数
政党内比例順位
/政党当選者数
1947年高知県議会議員選挙 1947年4月5日 33 ーー ーー ーー票 ーー / /
1951年高知県議会議員選挙 1951年4月30日 37 ーー ーー ーー票 ーー / /
1955年高知県議会議員選挙 1955年4月23日 41 ーー ーー ーー票 ーー / /
1959年高知県議会議員選挙 1959年4月23日 45 ーー ーー ーー票 ーー / /
第29回衆議院議員総選挙 1960年11月20日 47 高知県全県区 自由民主党 6万9604票 16.9% 5 1/8 /
第30回衆議院議員総選挙 1963年11月21日 50 高知県全県区 自由民主党 6万4873票 16.9% 5 1/8 /
第31回衆議院議員総選挙 1967年01月29日 53 高知県全県区 自由民主党 6万2493票 14.2% 5 1/8 /
第32回衆議院議員総選挙 1969年12月27日 56 高知県全県区 自由民主党 6万1075票 13.5% 5 3/9 /
第33回衆議院議員総選挙 1972年12月10日 59 高知県全県区 自由民主党 7万6938票 16.5% 5 4/7 /

脚注

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  1. ^ 『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。
  2. ^ a b c 第77回国会 衆議院 本会議 第4号 ,昭和51年1月27日
  3. ^ 足摺の名所”. www.ashizuri.jp. 2020年2月17日閲覧。
  4. ^ 『官報』第14710号16頁 昭和51年1月21日号
公職
先代
小沢辰男
日本の旗 建設大臣
第37代:1974年 - 1976年
次代
竹下登
議会
先代
藤田義光
佐々木義武
日本の旗 衆議院農林水産委員長
1971年 - 1972年
1973年 - 1974年
次代
佐々木義武
渋谷直蔵