横須賀市立浦賀小学校
横須賀市立浦賀小学校 | |
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過去の名称 |
尋常高等浦賀小学校 浦賀尋常高等小学校 浦賀町浦賀国民学校 横須賀市浦賀国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 |
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校訓 | 学びあう 心ゆたかな じょうぶな子 |
設立年月日 | 1898年11月4日 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 2学期制 |
学校コード | B114220120295 |
所在地 |
〒239-0822 神奈川県横須賀市浦賀3-8-1 |
外部リンク | 公式サイト |
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横須賀市立浦賀小学校(よこすかしりつ うらがしょうがっこう)とは、神奈川県横須賀市浦賀にある、市立小学校。
沿革
[編集]- 1871年(明治4年)- 浦賀を訪れた神奈川県少参事大屋祐義による郷学校設立の説諭に応え、浦賀の有志らが東浦賀の乗誓寺に東岸郷学校(のち東岸学舎)、西浦賀の叶神社に西岸郷学校(のち西岸学舎)を開校。
- 1898年(明治31年)11月4日 - 浦賀東岸小学校と浦賀西岸小学校を合併し、尋常高等浦賀小学校として開校。
- 1923年(大正12年) - 浦賀尋常高等小学校に改称。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令により浦賀町浦賀国民学校に改称。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 浦賀町が横須賀市に編入されたため、横須賀市浦賀国民学校に改称。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革により現校名に改称。
東岸郷学校
[編集]明治4年春に神奈川県少参事の大屋祐義(斧次郎、後述)が県内各地を巡回して、幼老貴賤差別なくすべての人が和睦一致して、自由の保全と人生のすばらしさ、国家の幸福を達成するためには万人教育が必要であると説き、郷学校設立を呼びかけた[1]。これに賛同した浦賀の干鰯問屋など富農豪商が同年6月21日に東岸郷学校の設立を発起し、開校した[1]。最初の生徒は7歳から18歳までの19人で、漢学や国学が学ばれた[1]。同年8月には県から「郷学仮規則」が配布され、対象生徒は6歳から13歳までとされ、科目も多様化し、13歳以降は横浜修文館や東京大学校への進学が想定された[1]。明治6年7月に学制により小学校が設置され、郷学校は廃止された[1]。
なお、学校設立のきっかけとなった大屋祐義(おおやすけよし:1834–1879)は元上野国館林藩士。書史に通じ槍法に優れたことから、西南諸州への遊学を許された。松下村塾で知遇を得た縁で、戊辰戦争時には大村益次郎の薦めで軍監となり、上野戦争の神奈川方面を分任し功をあげた[2]。その後神奈川県少参事を経て、明治5年(1872年)に司法省に転じたが、時事を論じ合った西郷隆盛が官を辞して帰郷すると、自らも辞職。この間、時事を憤り建白すること十回、左大臣島津久光より賞賛され「建白屋」と称されたという[3]。西南戦争での西郷の最期を知ると、仲間と謀るところがあったが勾留された。まもなく眼病も患い、死を決して「永世特立論」「訐姦志」を書きあげ、嫡子半一郎にこれを宮内省に届けさせ、切腹自刃した(享年46、墓所は谷中天王寺)[3]。
通学区域
[編集]2014年度は以下の通りである[4]。
- 吉井1丁目の内10番~14番
- 浦賀1丁目~6丁目
- 浦上台
- 東浦賀1丁目、2丁目の内1番~23番
また、以下の地域は他校の通学区域であるが、通うことができる[5]。
- 池田町3丁目(9番2~14号を除く)
- 吉井1丁目(10~14番を除く)、2丁目~4丁目
- 浦賀丘1丁目、2丁目
進学先中学校
[編集]本校の通学区域がそれとなっているのは横須賀市立浦賀中学校である。
交通
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e 「学制」以前に設立された「郷学」における中等教育レベルの教育課程の構想 森田智幸、日本の教育史学 53 (0), 4-16, 2010、教育史学会
- ^ 大屋斧次郎館林人物誌 群馬県邑楽郡館林町 昭和16、p113
- ^ a b 大屋祐義国事鞅掌報効志士人名録 第1輯 史談会 今津隆治 明42,44、p89
- ^ 通学区域一覧表(平成26年4月1日現在) - 横須賀市
- ^ “指定変更承認地域一覧表”. 横須賀市 (2024年10月29日). 2025年1月4日閲覧。
- ^ 中学校の学校選択制(平成27年度入学生) - 横須賀市