無原罪の御宿りと福音書記者聖ヨハネ
スペイン語: La Inmaculada Concepción vista por San Juan Evangelista 英語: The Immaculate Conception with Saint John the Evangelist | |
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作者 | エル・グレコ |
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製作年 | 1585年ごろ |
種類 | キャンバス上に油彩 |
寸法 | 237 cm × 118 cm (93 in × 46 in) |
所蔵 | サンタ・クルス美術館、トレド |
『無原罪の御宿りと福音書記者聖ヨハネ』(むげんざいのおんやどりとふくいんしょきしゃせいヨハネ、西: La Inmaculada Concepción vista por San Juan Evangelista、英: The Immaculate Conception with Saint John the Evangelist)は、ギリシャ・クレタ島出身であるマニエリスム期のスペインの巨匠エル・グレコが1585年ごろ、キャンバス上に油彩で制作した絵画である。現在、トレドのサンタ・クルス美術館に所蔵されている[1]。
背景
[編集]エル・グレコはイタリア・ルネサンス美術の様式を吸収したが、ヴェネツィアとローマで相反する色彩と素描[2]にもとづく技法を試みることができた。その後、1577年に彼はスペインのトレドに移り[3]、スペインのルネサンスにおいて決定的な役割を果たすこととなった。イタリアで、彼は同じような精神を持った人々、概ね学者や仲間の画家たちと接しており、彼らは真の芸術家とは職人技を超越し、芸術的想像力の領域に踏み込んでいる者という信条を共有していた[4]。ところが、イタリアにおけるこのような芸術家の役割というものは、トレドでは共有されていなかった[5]。
エル・グレコは、フェリペ2世 (スペイン王) に認められれば、スペインを代表する著名な芸術家になれるであろうという期待を持っていた。実際、王の庇護が受けられれば、スペインにおける確固たる地位、そしてマドリードのような大都市に移住できる可能性が保証されたであろう[要出典]。[citation needed] しかし、自身の作品に対して支払いが不十分だと考えたエル・グレコの一連の法的な争いに加え、宗教的主題をはっきりと自然主義的に表現することよりも自身の様式を示すことを優先させたことにより、エル・グレコは王の庇護の獲得とは対極のことを成し遂げたのである[5]。
結果的に、エル・グレコは残りの生涯をトレドで過ごすこととなった。トレドで彼は同時代の人々に歓迎され、その中には説教師で詩人のオルテンシオ・フェリス・パラビシーノも含まれていた。パラビシーノは「クレタは彼に生を与え、トレドは彼によりよい故郷を与え、そこで彼は死を通して永遠の生を獲得したのである」と述べている[4]。同時代の人々から称賛されたほかに、エル・グレコは芸術家としても成功を収めた。1581年から1585年の間、祈祷画に対する需要が急速に高まった[6]が、エル・グレコの顧客は、いくつかの彼の作例 (たいてい、作品の小さなヴァージョン) から欲しい作品を選ぶことができ、彼は顧客の好みに合わせて、それらの作例を変更したのである。
エル・グレコは後に工房の師匠となり、その工房は大聖堂用の祭壇の構成や額の取り付けに携わった。彼の絵画は、往々にして同じ礼拝的な傾向を持つ教会のために委嘱された。エル・グレコとその工房は、1597年から1607年の10年間はいくつかの委嘱による絵画の制作をし、非常な収益を得た。この時期の重要な委嘱はエル・グレコの芸術家としての名声を上げ、彼はトレドにいたにもかかわらず自身の野心を満たすことができたのである[7]。
作品
[編集]
本作の包括的な主題は、エル・グレコの20数年間の画業の中で広範に発達してきたものであり、本質的に後の『無原罪の御宿り』 (サンタ・クルス美術館) に先駆けるものとなっている。本作で、エル・グレコは伝統的な西洋絵画の構図に逆らっている。鑑賞者の視線を通常のように右から左へと導く代わりに、福音記者ヨハネは画面下部左側に配され、彼の頭上に浮かぶ聖母マリアの幻影に感嘆している[8]。このように、エル・グレコの常軌を逸した構図は、意識的に選択された視覚的装置となっている。鑑賞者は聖ヨハネの立ち位置に置かれ、画面に入っていくのである。聖母マリアに関する神学的イデオロギーの、この初期の段階においてさえ、聖ヨハネは鑑賞者に背を向け、イエス・キリストの母である聖母マリアに主役の座を譲っている。画面における小さな役割に過ぎないとはいえ、聖ヨハネが描き込まれていることは、「無原罪の御宿り」の教義を比喩的に表現することに寄与している。彼はパトモス島で聖母を幻視したが、それは神の恩寵により人類の罪を免れて聖母が懐胎したという幻視であった[8]。
絵画の直線的で図式的な特質は、エル・グレコのビザンチン美術との変わることのないつながりを反映している。アーモンド型のマンドルラが聖母の頭部を縁取る光輪 (宗教美術) の役割をしている。また、輝く太陽の光線はエル・グレコの作品に一般的に見られるモティーフである。彼はバラ、アヤメ、オリーブ、シュロに加え、聖母の足元を縁取る智天使の頭部が示唆する玉座 (1577-1579年のプラド美術館蔵『聖三位一体』にも見られる) により、絵画に象徴性を付与している[6]。同じく聖母に関して三日月が見て取れるが、それは彼女の穢れのない出生を表し、スペインのカトリック信仰に対する文化的洞察を与えるものとなっている。スペインのルネサンス期には聖母マリアは広い信仰の対象となったが、三日月が彼女のアトリビュート (人物を特定する事物) であった[9] 。トゲのないバラは、父なる神とイエス・キリストの間の不完全さのない関係をしばしば反映するものである。画面の閉ざされた庭は、聖母の徳と純潔に言及する[9]。
脚注
[編集]- ^ “The Virgin of the Immaculate Conception and St John”. Web Gallery of Artサイト (英語). 2025年8月19日閲覧。
- ^ “Venetian Color and Florentine Design”. The Metropolitan Museum of Art. 2002年10月10日閲覧。
- ^ “The Virgin of the Immaculate Conception by El Greco, 1608–13”. Ancient Sculpture Gallery. 2025年9月1日閲覧。
- ^ a b “Biography of El Greco”. el-greco-foundation.org. 2025年9月1日閲覧。[自主公表?]
- ^ a b Kagan, Richard L. (1982). “El Greco and the Law”. Studies in the History of Art 11: 78–90. JSTOR 42617942. INIST:12448728.
- ^ a b “GRECO, El”. Web Gallery of Art. 2025年9月1日閲覧。[自主公表?]
- ^ “The Oballe Chapel in San Vincente, Toledo (1608–13)”. Web Gallery of Art. 2025年9月1日閲覧。[自主公表?]
- ^ a b Stoichita, Victor I. (September 1994). “Image and Apparition: Spanish Painting of the Golden Age and New World Popular Devotion”. RES: Anthropology and Aesthetics 26 (26): 32–46. doi:10.1086/RESv26n1ms20166903. JSTOR 20166903 .
- ^ a b Davies, David (1984). “El Greco and the Spiritual Reform Movements in Spain”. Studies in the History of Art 13: 57–75. JSTOR 42617963.