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相模が丘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本 > 神奈川県 > 座間市 > 相模が丘
相模が丘
町丁
地図北緯35度30分33秒 東経139度25分26秒 / 北緯35.509269度 東経139.423817度 / 35.509269; 139.423817
日本の旗 日本
都道府県 神奈川県の旗 神奈川県
市町村 座間市
人口情報2023年令和5年)8月1日現在[1]
 人口 23,202 人
 世帯数 12,483 世帯
面積[2]
  1.365015691 km²
人口密度 16997.61 人/km²
設置日 当該地域各大字小字を統合・地番整理を施行し 1959年昭和34年)4月20日、高座郡座間町大字相模台起立。<1981年(昭和56年)6月1日座間市相模が丘と町丁に改編し住居表示施行>
郵便番号 252-0001[3]
市外局番 042(相模原MA)(一、二、三丁目の相模が丘仲よし小道さくら百華の道以北と五丁目全域。)[4]
046(厚木MA)(上記以外)[5][6]
ナンバープレート 相模
ポータルアイコン ポータル 日本の町・字
ポータルアイコン ポータル 神奈川県
プロジェクト 日本の町・字
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相模が丘(さがみがおか)は、神奈川県座間市町丁。現行行政地名は、相模が丘一丁目から相模が丘六丁目。住居表示実施済み区域。

地理

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神奈川県座間市の北部に位置し、小田急小田原線小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅に近いことから、最北部から順次市街化が進行し、1950年代までにほぼ全域が宅地市街化している。元の開墾農地の地割を反映し、街路網自体は直線的である。

大字~町丁への変遷

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当区域は元々相模野・座間野・芝原(しばあら)と呼ばれる原野の一部であり、主に座間宿村新田宿村入会地とされていた。それまで人が誰も住んでおらず、江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった[注釈 1]

江戸末期嘉永6年(1853年[注釈 2][注釈 3]にこの入会地が分割され、相模が丘は座間宿村新田宿村四ツ谷村座間入谷村に組み込まれた[7][注釈 4][注釈 5]

地籍は、高座郡座間町の内、

大字座間北広野・字中広野の各小字全域、字南広野・字元広野・字元広野窪各小字の行政道路以北・字元広野窪の農道[8]以北、ほんのわずかな部分の大字座間入谷飛地小松原行政道路以北[9]、そして新田宿飛地見分塚<小田急線線路境に辰街道・行政境界道路の三角地帯>(相模が丘一丁目〜四丁目)[10]

小田急線・辰街道[注釈 6]・行政境界道路を境に大字新田宿飛地見分塚の江戸街道まで(相模が丘五丁目)[11]

辰街道・江戸街道[注釈 7]・行政境界道路を境に新田宿飛地見分塚残部(江戸街道から小田急住宅まで)と新畑全域、大字四ツ谷飛地二ツ塚行政道路以北(相模が丘六丁目)[12]

以上の各大字小字・飛地である[注釈 8][13][14]

終戦後から小田急相模原駅周辺の大字座間字北広野、1958年には新田宿飛地(相模が丘六丁目)に小田急住宅が開発分譲されると当該地域の宅地化が進行し、救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)[注釈 9]1959年4月20日にこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した[注釈 10][注釈 11][16][17]

相模原市1969年7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字磯部・大字新戸・大字新磯野の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目の町丁を起立し、翌1970年7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目の各町丁が起立されたが、このことがきっかけで高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台が隣接して併存することとなった[注釈 12]。(南区の地域も参照)。

1971年11月1日に市制施行した座間市が、相模原市に遅れること12年後1981年6月1日に大字相模台地区で住居表示を実施した際[20][注釈 13]、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目を起立し町丁に改編した。

歴史の時系列と詳細

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この地は既に1880年高座郡座間村北広野(相模が丘一丁目)、新田宿村飛地見分塚(相模が丘一丁目<辰街道・行幸道路・サウザンロード相模台の三角地帯>)、上鶴間村相模原市南区南台五丁目)、新戸村(相模原市南区相模台二丁目)、各村の境界域(小田急相模原駅北口付近)[注釈 14]に中和田新開[注釈 15]開拓され、上鶴間村分には人が住み着いて開墾していたが、1894年になって、座間中宿出身者1名が新開の座間村北広野に居を構え入植に加わる[注釈 16]1901年には開拓者たちは次々と府中道(現・南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加わり、新開地は一つの集落として活気をおびて来た[注釈 17]

1919年3月15日、新開四十年記念碑[注釈 18]建立時の頃には14戸にまでなった中和田新開は府中道(行幸道路旧道)と辰街道[注釈 19]の交差する未開地の中に小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の原点となった[注釈 20]

1937年9月30日、東京府東京市牛込区市ヶ谷台より陸軍士官学校座間の地に移転すると、1938年から高座郡大野村に、臨時東京第三陸軍病院陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)、原町田陸軍病院(後の相模原陸軍病院、戦後は在日米軍医療センター)や、原町田通信学校(正式名称は陸軍通信学校、現・相模女子大学ほか)、原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校、現・学校法人麻布獣医学園)が開設された。

[注釈 21]もともと明治初年には原町田を含む南多摩郡はじめ三多摩は、神奈川県管下にあった。明治26年4月1日東京府に編入されたが、それまでは原町田と座間・相模原は同県であったこともあり、その後も関係の管轄区分では座間を含む相模原地域は原町田の一部であった[注釈 22]。そのため上鶴間にできた病院を「原町田陸軍病院」、淵野辺にできた憲兵隊を「原町田憲兵分隊」と称し電信電話町田郵便局の管轄であった。相模が丘の大部分が相模原MAであるのはその名残である[注釈 23][注釈 24]

大きな転換点となったのは、前述のとおり臨時東京第三陸軍病院[注釈 25]の進出である。1938年3月1日の開院に合わせ、小田原急行鉄道が、中和田新開を通過していた小田原線上の座間町大野村の行政境界に相模原駅[22][23][注釈 26][注釈 27]を開業し、同駅と同病院を結ぶ辰街道[注釈 28]周辺が市街化する契機となった[注釈 29]

新田宿飛地(相模が丘一丁目[24]・五丁目・六丁目)は、他の地域同様、江戸時代末期文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成したが[25]本村から遠く、通いでの耕作は大変であったので、所有者は割り当てられた土地に植林して松林とした[注釈 30]。小田急線が開通して4年後、1931年長野県から移住した人[26]を皮切りに、旧陸軍士官学校ほか軍用地買収[27]1936年6月から行われ、建設が始まった1936年10月26日[28]から1943年にかけて、新田宿飛地見分塚(相模が丘一丁目三角地帯・五丁目)に本格的に人が住み着いた。東京市三河島から陸軍関係施設の建設に従事した人[29]神田の青果問屋の番頭だった人[29]練馬の大地主で漬物屋だった人は陸軍に土地を買収されたため相模が丘に移ってきた[29]東林間水道新開から移住した人、様々な理由・所縁で相模が丘に移住して来た[30]。皆、昭和十八年までにこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」という親睦会を作った[31]戦時中、高座郡旧相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、小田急相模原駅周辺一帯を相模台と呼んでいた[32]

戦前戦中戦後にかけて、相模が丘・広野台小松原は幸い軍用地の接収を免れて畑の耕作は従来通り続けられた[33]

終戦直後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」[注釈 31]が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 32]。その政策に基づき農業集落として「相模台」とされた[34][35]

この地は地下の水脈が約25mと深く、その上関東ローム層という火山灰土の不毛な土壌干害を受けやすかったが、栽培には適地であったので主に桑園として利用され、陸稲甘藷大根なども栽培した[注釈 33][注釈 34]戦後1949年県営相模原畑地灌漑事業が着工され、1953年、畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)に通水を開始[36]したが、相模が丘の元の大字である座間新田宿は灌漑用水組合に加入しなかったため、用水の恩恵を受けることができなかった[注釈 35][注釈 36]1955年に町営水道が完成、1958年には新田宿飛地(相模が丘六丁目)に小田急住宅が開発分譲され[37]、宅地化。畑地灌漑用水路西幹線は、その役目を終え、1969年度年度末1970年3月に通水を終了した[注釈 37]

難儀した村富線

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出典元:『三十周年誌・相武台歴史同好会 発行者:相武台歴史同好会 平成22年12月発行』p26※原文ママ

『村富線は相模原市中心部と南部を繋ぐ初めての道路です。相模原台地の東、鳩川筋と西、鳩川沿いには街道がありましたが人家のない台地上には東西を結ぶ道はあっても南北を繋ぐ道はありませんでした。県と市は南北を縦断する重要道路として昭和31年9月24日村富相武台線を都市計画道路として決定、告知しました。昭和33年8月1日首都圏整備法による市街地開発地区第1号に指定されました。

一方道路の方はその後地元説明会、物件調査、用地買収等を経てようやく昭和44年工事施工となりましたがそれ以前の昭和42年1月より入居していた相武台団地住民は団地の真中に1日に何万台も車が通る道路が出来ると初めて聞いて驚きました。当然大反対です。交渉は10年の長期にわたりました。4車線を2車線に変更し、遮音壁を設置し、歩道橋を架け、広場を整備する等で昭和56年5月合意しました。その間付近の住民より団地のエゴだと非難もありました。昭和60年3月24日供用開始しました。今では主要幹線道路として活用されています。』

年表

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世帯数と人口

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2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
相模が丘一丁目 2,644世帯 4,529人
相模が丘二丁目 1,928世帯 3,478人
相模が丘三丁目 1,622世帯 3,033人
相模が丘四丁目 1,906世帯 3,520人
相模が丘五丁目 2,655世帯 4,822人
相模が丘六丁目 1,728世帯 3,820人
12,483世帯 23,202人

人口の変遷

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国勢調査による人口の推移。

人口推移
人口
1995年(平成7年)[115]
19,766
2000年(平成12年)[116]
22,561
2005年(平成17年)[117]
22,646
2010年(平成22年)[118]
23,214
2015年(平成27年)[119]
23,298
2020年(令和2年)[120]
23,880

世帯数の変遷

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国勢調査による世帯数の推移。

世帯数推移
世帯数
1995年(平成7年)[115]
8,603
2000年(平成12年)[116]
10,050
2005年(平成17年)[117]
10,165
2010年(平成22年)[118]
10,838
2015年(平成27年)[119]
11,226
2020年(令和2年)[120]
12,183

学区

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市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[121]

丁目 番・番地等 小学校 中学校
相模が丘一丁目 全域 座間市立相模が丘小学校 座間市立相模中学校
相模が丘二丁目 全域
相模が丘三丁目 全域
相模が丘四丁目 全域 座間市立相模野小学校
相模が丘五丁目 全域 座間市立相模が丘小学校
相模が丘六丁目 全域 座間市立相模野小学校

事業所

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2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[122]

丁目 事業所数 従業員数
相模が丘一丁目 130事業所 1,711人
相模が丘二丁目 73事業所 420人
相模が丘三丁目 55事業所 291人
相模が丘四丁目 72事業所 642人
相模が丘五丁目 151事業所 784人
相模が丘六丁目 58事業所 1,374人
539事業所 5,222人

事業者数の変遷

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経済センサスによる事業所数の推移。

事業者数推移
事業者数
2016年(平成28年)[123]
573
2021年(令和3年)[122]
539

従業員数の変遷

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経済センサスによる従業員数の推移。

従業員数推移
従業員数
2016年(平成28年)[123]
5,426
2021年(令和3年)[122]
5,222

交通

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鉄道

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町内に鉄道駅はない。

バス

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道路

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施設

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総本山別院寺院

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その他

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日本郵便

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参考文献

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  • 『座間市史第4巻』
  • 『土地宝典』「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」大日本市町村地番反別入地図刊行会/編 昭和3年12月25日刊行
  • 『土地宝典』「神奈川県高座郡新磯村地番反別入図」大日本市町村地番反別入地図刊行会/編 昭和4年3月5日刊行
  • 『土地宝典』「神奈川県高座郡麻溝村地番反別入図」大日本市町村地番反別入地図刊行会/編 昭和9年4月28日刊行
  • 『座間の地名』執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行
  • 『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』発行:昭和61年
  • 『座間むかしむかし第1集』発行:昭和32年10月15日 発行者:座間町教育委員会
  • 『座間むかしむかし第3集』発行:昭和49年5月20日 発行者:座間市教育委員会
  • 『座間むかしむかし第6集』発行:昭和57年1月16日 発行者:座間市教育委員会
  • 『座間むかしむかし第7集』発行:昭和58年3月31日 発行者:座間市教育委員会
  • 『座間むかしむかし第25集』発行:平成15年3月28日 発行者:座間市教育委員会
  • 『広報ざま縮刷版 第1巻』
  • 『広報ざま縮刷版 第2巻』
  • 『相模原市史第2巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和42年3月
  • 『相模原市史第4巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和46年3月18日
  • 『相模原市史現代資料編』発行者:相模原市史編さん室 発行日:平成20年3月25日
  • 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著
  • 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行
  • 『大和市史研究 第9号』鶴間新町のルーツを探る —座談会—(岩崎房吉・小松一男 ・杉崎貴重・関水義治・高橋治作・高橋冨蔵・市史編さん事務局)…昭和58年3月発行
  • 『相模原津久井・町田の電信電話史』相武電鉄上溝浅間森車庫付属資料館 平成31年3月10日発行
  • 『小松原開拓百年史』総著者/大塚喜代治・小松原稲荷神社氏子一同 平成16年10月吉日発行
  • 『三十周年誌・相武台歴史同好会』 発行者:相武台歴史同好会 平成22年12月発行

脚注

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注釈

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  1. ^ 狭義には、座間村で古くから入会地としていた相模が丘・広野台相模原市南区相模台一丁目・二丁目を、広義には座間野九ヵ村(磯部村新戸村座間宿村座間入谷村栗原村大谷村小園村四ツ谷村新田宿村)の入会地を「芝原」と言う。『座間の地名』p15、『座間むかしむかし第3集』p4字名の起こり。
  2. ^ この年から芝原の開墾が始まり、文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成し座間宿村・新田宿村・座間入谷村・四ツ谷村の各戸に平等に分割され逐次に耕作が始まった。栗原村域の開墾は慶応4年(1868年)に始まった。『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』 p60・p61頁、『座間の地名』p18、『座間むかしむかし第1集』p18芝原の開墾、『座間むかしむかし第3集』p4字名のおこり、『座間むかしむかし第3集』p17~p19・相模台の昔、『座間むかしむかし第3集』巻末 座間市略年表
  3. ^ 「小池窪」(現・座間市相武台二丁目)東方に広がる台地で辰街道までを「広野(ひろの)」言う。芝原の一部で「広野」は明治初年につけられた地名である。昭和3年12月25日刊行の『土地宝典』「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」大日本市町村地番反別入地図刊行会/編には東半分の北から「北広野」「中広野」「南広野」(以上相模が丘一丁目~四丁目)、西半分の北から「元広野久保」「元広野」(広野台一丁目)以上の小字がある。『座間の地名』p89
  4. ^ 座間宿村は1868年に座間村になった。『座間の地名』p18
  5. ^ 小田急相模原駅付近は高座郡上鶴間村新戸村座間村北広野、新田宿村飛地見分塚の各村が境界を接する区域となり、やがて1889年明治の大合併により大野村大字上鶴間<現・相模原市南区南台五丁目>、新磯村大字新戸<現・相模原市南区相模台二丁目>、座間村大字座間北広野<現・座間市相模が丘一丁目>・大字新田宿飛地字見分塚<現・座間市相模が丘一丁目-小田急線線路境に辰街道・行政境界道路の三角地帯>となった。
  6. ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新五丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近→相模原市役所本庁の近所→弥栄相模原ゴルフクラブの中→麻溝台一等三角点の傍→国立病院機構相模原病院の敷地内→国立病院通り→小田急相模原駅の西側→相模が丘・小松原大和市上草柳を通って藤沢市に至る街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)向かっているからとも、また慶安3年の中和田村と座間村との境争論の絵図(『相模原市史第2巻』 慶安3年(1650年)8月25日付 中和田・座間秣場争い裁許の図)にも描かれてるように、相模川流域の村々と境川(高座川・たかくらがわ)流域の村々との領分を二つに分ける境界として、相模野台地の真ん中を「断ち割る」ようにして走る道だからとも言われている。明治期の篠原新開や中和田新開、下溝新開などの開墾入植は、すべてこの道路沿いで行われている。国立病院機構相模原病院より以北は、陸軍演習場の開設により、道筋の痕跡はなくなっているが、昭和11年までは地域の人々にとって重要な道路であった。出典元:『麻溝台地区の生い立ち』p10・p11 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会、『座間の地名』p15・p16
  7. ^ 相武台前駅踏切を渡り相模が丘に向かう道。相模野小学校下、元広野と元広野窪の境界道である小池窪の坂を直進し農道(現・座間街道)を渡り、相模が丘中部(三丁目と四丁目の境界道路・五丁目と六丁目の境界道路)を縦貫し、東海大学付属相模高等学校・中等部相模カンツリー倶楽部の間の道を通り、八王子道(滝山道)を渡り、大和市下鶴間公所(ぐぞ)、鶴間村町谷原町田市南町田町田街道の町谷原交差点)、小川村を経て、長津田宿大山街道(矢倉沢往還)に合流し江戸三宅坂へ向かい日本橋に通ずる道。『座間むかしむかし第25集』p5・p6相模が丘(芝原)の移り変わり 3街道の移り変わり
  8. ^ 『座間の地名』付録 昭和3年12月25日刊行『土地宝典』「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」
  9. ^ 『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』p68 第2部-1、相模が丘・広野台
  10. ^ 『座間広報』第64号 昭和34年7月15日発行p1に「大字相模台の設置~従来とかく相模台の新田宿と新田宿が間違れ迷惑する事が多かったのでこれを除くため芝原の行政道路(鶴間行)以北を相模台とし、小字は北広野・中広野・南広野とした。※原文ママ」と記述あり。字元広野窪の農道[15]以北も同様となった。『座間の語り伝え 村制編1村の起こり』p64。
  11. ^ 『座間の地名』p26・付録『土地宝典』昭和3年12月25日刊行「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」
  12. ^ 戦時中、高座郡旧相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、小田急相模原駅周辺一帯を相模台と呼んでいた[18][19]
  13. ^ 不動産登記法に基づく地番は、1959年4月20日に高座郡座間町大字相模台として新しい大字を新設した際、新たに付け直した地番のまま。
  14. ^ それらの村は1889年明治の大合併により同郡座間村(大字座間北広野、大字新田宿飛地見分塚)、大野村(大字上鶴間)、新磯村(大字新戸)となった。
  15. ^ 座間分の本村である座間宿村座間入谷村新田宿村四ツ谷村栗原村の人々は「芝原(しばあら)」の一番奥地にあることから、この地を「奥野(おきの)」「沖野」と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集』p4字名のおこり。中和田新開の詳細は南台の頁を参考されたし。
  16. ^ 中和田新開座間村域第一号入植者、辰街道と府中道旧道の交差する所(現・相模が丘一丁目)。『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』p63・『座間の地名』p20①中和田新開・『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 p19◇中和田新開(蓼川新開)
  17. ^ 1901年は入植者が新たに6軒加わった。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 p19◇中和田新開(蓼川新開)、『座間の地名』p20①中和田新開
  18. ^ 移住した1880年を開拓初年としている。二宮神社境内にあり。『座間の地名』p20①中和田新開
  19. ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新五丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近→相模原市役所本庁の近所→弥栄相模原ゴルフクラブの中→麻溝台一等三角点の傍→国立病院機構相模原病院の敷地内→国立病院通り→小田急相模原駅の西側→相模が丘・小松原大和市上草柳を通って藤沢市に至る街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)向かっているからとも、また慶安3年の中和田村と座間村との境争論の絵図(『相模原市史第2巻』 慶安3年(1650年)8月25日付 中和田・座間秣場争い裁許の図)にも描かれてるように、相模川流域の村々と境川(高座川・たかくらがわ)流域の村々との領分を二つに分ける境界として、相模野台地の真ん中を「断ち割る」ようにして走る道だからとも言われている。明治期の篠原新開や中和田新開、下溝新開などの開墾入植は、すべてこの道路沿いで行われている。国立病院機構相模原病院より以北は、陸軍演習場の開設により、道筋の痕跡はなくなっているが、昭和11年までは地域の人々にとって重要な道路であった。引用元:『麻溝台地区の生い立ち』p10・p11 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会、『座間の地名』p15・p16
  20. ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 p19◇中和田新開(蓼川新開)
  21. ^ 『相模原市史第4巻』 608頁~609頁
  22. ^ 小田原線江ノ島線沿いの大野村上鶴間(現・相模原市南区相模大野東林間旭町豊町栄町南台相南松が枝町)、小田急相模原駅近辺の新磯村新戸(現・相模原市南区相模台一丁目の大部分・二丁目~四丁目全域)磯部(現・相模原市南区相模台一丁目最北部・五丁目~七丁目全域、相模台団地桜台)、座間町新田宿飛地見分塚(現・座間市相模が丘五丁目)・大字座間北広野・座間中広野(現・座間市相模が丘一丁目~三丁目)の地域。
  23. ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 p,31◇軍都計画。『相模原津久井・町田の電信電話史』p69・p70頁
  24. ^ 1965年5月30日、座間電報電話局開局の際、座間町内の町田局・大和局に収容されていた165回線を座間局に振替収容した。『相模原津久井・町田の電信電話史』p56・p139。『座間広報』第82号 昭和40年5月20日発行p3。
  25. ^ 高座郡大野村上鶴間新磯村磯部大野、麻溝村下溝字一ノ芝野・字十八の原に跨っている[21]。『座間広報』20号昭和26年3月10日発行p2に「国立相模原病院 所在地:相模原町上鶴間4719番地」と記載。『相模原市史第4巻』p575には病院本館(管理棟)の玄関にあたる地点が上鶴間分であったので行政区域は大野村に入っていたと記述。
  26. ^ もう一つには、同じく病院前駅として開業、翌昭和14年3月14日、臨時東京第三陸軍病院天皇陛下行幸につき相模原駅と改称という記述あり。引用元:原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、p80。
  27. ^ 1941年3月1日小田原急行鉄道は小田急電鉄と改称、同年4月5日に小田急相模原駅と改称。
  28. ^ 現・サウザンロード相模台(国立病院通り)。往時は高座郡座間村座間小字北広野・新田宿飛地見分塚<現・座間市相模が丘>、大野村上鶴間<現・相模原市南区南台>と新磯村新戸<現・相模原市南区相模台二丁目・一丁目>・磯部<現・相模原市南区相模台団地桜台>の境界道路となっていた。
  29. ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 p33◇臨時東京第三陸軍病院)、『麻溝台地区の生い立ち』p10・p11 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会
  30. ^ 『座間むかしむかし第25集』p1・p2 相模が丘(芝原)の移り変わり1はじめに
  31. ^ ここで言う「帰農」は、戦後軍属を解かれた者、退役軍人復員除隊した者、陸軍士官学校の陸士生、外地からの引揚者が開墾した耕地のこと。相模原市南区相模台三丁目~七丁目・新磯野麻溝台の農業集落は旧陸士演習場払下げ地である。
  32. ^ 『麻溝台地区の生い立ち』p83 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会
  33. ^ 『座間の地名』p89、『座間むかしむかし第25集』p2・p3相模が丘(芝原)の移り変わり
  34. ^ 座間の翁が青年時代、広野台の一番高い所である行政道路(座間街道)相武台跨線橋で詠んだ句「麦青し見えるところに牛つなぐ」『座間むかしむかし第25集』p19戦前から戦後のまちの様子 3小田急線開通当時から戦後までの相武台
  35. ^ 新田宿・座間・座間入谷の三地区には水田があり困らないこと、工事負担金と使用量が相当高額になってしまうことが理由である。栗原は用水組合に加入したため、ひばりが丘二丁目~四丁目全域・五丁目の大部分、東原さがみ野ほか栗原全域で灌漑用水を利用できた。『座間むかしむかし第25集』p8~p11相模が丘(芝原)の移り変わり5食糧難と畑地灌漑
  36. ^ 以下、相模原市相模台の項~しかし水路に当たる畑の所有者は、苦労して入手した畑だったが喜んで提供した。東西二本の幹線水路を、きれいな相模川の水が勢いよく流れた。夏の作業の終わり土と汗で汚れた身体をこの水で洗った時の気持ち良かったこと。陸稲の畑に水を流した。昔は豊作で三俵くらいしか穫れなかった米も、六俵の収穫があった。長い間望んでいた、豊かな農地が生まれた。引用元:『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 p48 畑地灌漑事業の完成◇四・終戦~再び開拓。
  37. ^ 1970年3月、用水を管理していた「相模原畑地灌漑土地改良区」が解散し通水終了。『座間の地名』p25
  38. ^ 相模野は全体で2000町歩(約2000ヘクタール)の広さを有しているが、この地は関東ローム層という火山灰土で地味も悪く、その上、地下の水脈が約25mと深く農地に適さないので原野のままになっていた。しかしこの原野には屋根を葺く・燃料になる雑木や葉・牛馬の飼料になる雑草・農作物の堆肥となる雑草や落葉などが豊富なので、周辺の村々は入会野として利用した。座間村でも古くから相模野の内、相模が丘・広野台相模原市南区相模台一丁目・二丁目などを入会野としていた。『座間の地名』p15
  39. ^ 慶安2年(1649年)4月幕府が裁定を下し①北の境※は百八ツの供養塚を潰し百六の塚とし、南の境は水郷(みずのごう・大和斎場付近)とした。※上鶴間村中和田(相模原市南区南台五丁目)・新戸村(南区相模台二丁目)・座間村(座間市相模が丘一丁目)の境界点、辰街道と府中道旧道が交差する所。『座間むかしむかし第六集』p15~p23 夏草騒動・『相模原市史第2巻』p238第2章第2節 秣場争い・『相模原市史第2巻』付録 慶安3年(1650年)8月25日付 中和田・座間秣場争い裁許の図・『東林間開発百年のあゆみ』p71 昭和62年11月3日発行 五・相模野の秣場争い◇二・地域の風土・歴史。②今まで分かりにくかった境界に幅3.6mの道路(都市計画道路相模原二ツ塚線 通称・東海相模通り)を造り、辰街道と境界道路(東海相模通り)を結ぶ接点に目印として(東海大学付属相模高等学校・中等部の西側、扇の要にあたるところ)検(見)分塚(高さ2~3mの塚)を築いた。③座間側の主張である徳川家康入国当時の境界線を認めた。以上『座間の地名』p15・p16。
  40. ^ 前年の正保3年(1646年)にも座間村と上鶴間村中和田地域とで境界争いが紛糾した。『相模原市史第2巻』p238第2章第2節 秣場争い・『座間の地名』p15 執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行・『東林間開発百年のあゆみ』p71 昭和62年11月3日発行 五・相模野の秣場争い◇二・地域の風土・歴史
  41. ^ 分村の際、境域については元は一つの村であったので<田畑・山林等犬牙錯雑して区別すべからず>と達しがあり、入り組んだものが後世に残ることになった。『座間の地名』p38
  42. ^ 中和田野(上鶴間村中和田持)、谷口野(上鶴間村谷口持)、宇野森野(鵜野森村持)、木曽野(淵野辺村・武蔵国多摩郡木曽村・武蔵国多摩郡根岸村三ヵ村入会)、矢部野(上矢部村・上矢部新田村二ヵ村入会)、九沢野(小山村・橋本村・上相原村・下九沢村・上九沢村・大島村・田名村・津久井郡上川尻村・津久井郡下川尻村九ヵ村入会)、溝野(上溝村・下溝村・当麻村三ヵ村入会)、座間野(磯部村・新戸村・座間宿村・座間入谷村・栗原村・大谷村・今里村・四ツ谷村・新田宿村九ヵ村入会)、柏谷野、鶴間野の10区画。『相模原市史第2巻』p229 第2章第2節 相模野の入会とその開発
  43. ^ 座間野は磯部村新戸村座間宿村座間入谷村新田宿村四ツ谷村栗原村大谷村小園村の9ケ村の入会野で、その野元権は座間宿村と座間入谷村が持っていた[42]。尚、『相模原市史第2巻』p229 第2章第2節 相模野の入会とその開発には小園村ではなく今里村と記述、栗原村内小池地区は柏谷野管轄と記述あり。
  44. ^ 広野台の元広野・元広野窪、相模が丘の一丁目~四丁目(北広野・中広野・南広野)は元禄年間に座間宿村分とされた。『座間の地名』p89
  45. ^ 座間宿村・座間入谷村・新田宿村四ツ谷村栗原村・磯部村・新戸村に分割した。『座間の地名』p17・『座間むかしむかし第7集 編集者:座間市文化財保護委員会 発行者:座間市教育委員会 昭和58年3月25日刊行』p15~p17
  46. ^ 座間野の内、芝原地域各大字(座間・座間入谷・新田宿・四ツ谷・栗原)の境界は享保15年(1730年)には確定した[44]
  47. ^ 栗原分の開墾慶応4年(1868年)に始まった。引用元:『座間の語り伝え 村制編1・村の起こり 』 p60・p61、『座間の地名』p18
  48. ^ 座間宿村は1868年に座間村になった。『座間の地名』p18
  49. ^ 現・明王 『座間の地名』p,68
  50. ^ 中和田新開座間村域第一号入植者、辰街道と府中道旧道の交差する所(現・相模が丘一丁目)。『座間の語り伝え 村制編1村の起こり』p63・『座間の地名』p20①中和田新開・『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 p19◇中和田新開(蓼川新開)
  51. ^ 鉄道省監督局「地方鉄道、軌道事業の現況並に異動」『電気協会雑誌』第196号、日本電気協会、1938年4月、附録4頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
  52. ^ 1941年4月5日に小田急相模原駅と改称。
  53. ^ 旧道路法からの引継路線(神奈川県)昭和28年2月10日。告示第54号
  54. ^ 『相模原市史第4巻』p655には7,608人と記述あり。
  55. ^ 『相模原市史第4巻』p650には「昭和16年4月29日天長節の佳日、二町六か村は合併し、ここに面積108.71平方キロメートル、人口45,482人の町としては日本最大の相模原町が誕生した。※原文ママ」の記述あり。
  56. ^ 日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、この時点で一部地域を除き、ほぼ全ての日本軍の戦闘行為が停止された。『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 pp.277-278
  57. ^ 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行p82【米駐留軍の陸士接収】には「昭和20年9月5日、米陸軍第一騎兵師団第四平站廠として米軍進駐」とある。
  58. ^ 東京丸の内第一生命館接収した連合国軍最高司令官総司令部本部からキャンプ座間上鶴間米軍ハウスほか米軍施設への軍用道路。『座間の語り伝え 村制編1村の起こり』p69。「米軍によるたいへんな工事であった。大和学園江ノ島線を越えるには遮断機や警報機がない「第4種踏切」で昭和28年12月に山王原跨線橋が出来た。相武台の小田急線を跨ぐところには元の古い農道に簡易な陸橋が着工前から架けてありそれを暫く供用し昭和28年10月【相武橋(そうぶばし)】(相武台跨線橋)として新設整備された。」※原文ママ「行政道路(座間街道)の工事」『大和市史研究 第9号 鶴間新町のルーツを探る —座談会—(岩崎房吉・小松一男 ・杉崎貴重・関水義治・高橋治作・高橋冨蔵・市史編さん事務局)…昭和58年3月発行』p22
  59. ^ 『小松原開拓百年史』p21に「座間日産工場の前の道路は昭和21年に進駐軍が作った道路である。進駐軍にとっては厚木基地と並んで座間キャンプは重要な基地だったようだ。本国から着いた荷物を横須賀港から座間キャンプまで運搬するのに相模大野の谷口の交差点を廻らければならなかったので、16号線目黒の交差点から相武台の東の端まで斜めに通したのであった。※原文ママ」
  60. ^ 2025年9月17日、橋梁に刻印確認。
  61. ^ 2025年9月10日、橋梁に刻印確認。
  62. ^ 路線認定告示で用いられる整理番号38。
  63. ^ 相模原町は残りの区域で、1954年11月20日市制施行し人口約8万人の相模原市が発足した。
  64. ^ 完成は1963年度の年度末である1964年3月[65]
  65. ^ 日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が発効し、第二次世界大戦終結(日本の降伏)の1945年(昭和20年)9月2日以降、連合国軍占領下により停止状態にあった日本主権が回復した日付に基づく。
  66. ^ 相模が丘の元の大字である座間と新田宿は用水組合に加入しなかったため用水を利用出来なかった(※新田宿・座間・座間入谷の三地区には水田があり困らないこと、工事負担金と使用量が相当高額になってしまうことが理由である)引用元:『座間むかしむかし第25集』p8~p11 相模が丘(芝原)の移り変わり 5食糧難と畑地灌漑。
  67. ^ 以下、相模原市南区相模台の項~しかし水路に当たる畑の所有者は、苦労して入手した畑だったが喜んで提供した。東西二本の幹線水路を、きれいな相模川の水が勢いよく流れた。夏の作業の終わり土と汗で汚れた身体をこの水で洗った時の気持ち良かったこと。陸稲の畑に水を流した。昔は豊作で三俵くらいしか穫れなかった米も、六俵の収穫があった。長い間望んでいた、豊かな農地が生まれた。引用元:『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 p48 畑地灌漑事業の完成◇四・終戦~再び開拓。
  68. ^ 1969年度年度末1970年3月、用水を管理していた「相模原畑地灌漑土地改良区」が解散し通水終了。『座間の地名』p25
  69. ^ 『座間広報』第84号 昭和40年7月5日発行p2に「座間町水道事業のあらまし~給水開始は昭和30年1月※原文ママ」と記述。『座間広報』第134号 昭和44年6月1日発行p3に「15年を迎えた町水道事業~座間町営水道は昭和28年8月22日創設認可を得て、ただちに工事に着手、昭和30年1月1日給水開始※原文ママ」と記述。
  70. ^ 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』 涌田佑/著 平成18年11月1日発行●六章:米軍接収と練兵場開拓ー相武台下開拓農業組合ーp87には「公社から相武台団地土地買収の申し込みがあったのは昭和36年、建設が始まったのは昭和37年」と記してある。昭和37年に用地の造成工事がはじまり、団地建設工事の着工は昭和39年7月。
  71. ^ 『相模原市史現代資料編』p811・p812に「中略~相武台団地住民は入居に際して団地中央の道路計画につき説明を受けておらず~」とある。
  72. ^ 団地内を2車線に変更し、遮音壁を設置、歩道橋を架け、広場を整備する等で双方が合意した[86]
  73. ^ 『座間広報』第66号 昭和35年7月20日発行p8「工場設置の状況」に記述あり。
  74. ^ 『座間広報』第64号 昭和34年7月15日発行p1に「大字相模台の設置~従来とかく相模台の新田宿と新田宿が間違れ迷惑する事が多かったのでこれを除くため芝原の行政道路(鶴間行)以北を相模台とし、小字は北広野・中広野・南広野とした。※原文ママ」と記述あり。字元広野窪の農道相武台団地入口信号ダイエー角から相模原市行政境界迄の細い街路)[90]以北も同様となった。
  75. ^ 町田市柿生郵便局管内の三輪町を除く)、相模原市上鶴間麻溝台鵜野森全域、大沼の大部分、磯部新磯野古淵の一部、座間町相模台の大部分※1960年6月19日当時。
  76. ^ 旧相模原電報電話局、後の橋本分局。市外局番027・市内局番7 『相模原津久井・町田の電信電話史』p48。
  77. ^ 市外局番0274市内局番なし 『相模原津久井・町田の電信電話史』p43。
  78. ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』51頁。1961年11月5日の全国ダイヤル自動即時化まで、市外局番:東京23区03、川崎04、日吉046、中原047、溝ノ口048、登戸049、横浜05、藤沢066、武蔵野三鷹022、武蔵府中0236、調布024、立川025、八王子026、青梅028,町田0274相模原(旧相模原電報電話局、後の橋本分局)027、川口082、浦和086、市川073、松戸0739、船橋074、千葉072、野田0712、柏0716、大阪06。名古屋は交換手扱い。
  79. ^ 経済復興にともない加入申し込みは増加する一方で、電話の架設が追いつかない状況、すなわち〈積滞〉が深刻化していた。この時町田局管内は1000回線を超え、小田急相模原駅周辺には既に1000番台が割り当てられており新たに4000番台が、原町田区域・相模大野駅周辺区域には2000番台・3000番台が割り当てられた。市外局番設定0274、市内局番なし 小田急相模原駅周辺・例①旧表記・町田1xxx番→新表記・0274-1xxx、例②旧表記・町田xxx番→新表記・0274-4xxx。原町田・相模大野駅周辺・例❶旧表記・町田xx番→新表記・0274-20xx、例❷旧表記・町田xxx番→新表記・0274-2xxx、例❸旧表記・町田xxx番→新表記・0274-3xxx。『相模原津久井・町田の電信電話史』p43
  80. ^ 1961年11月5日、全国ダイヤル自動即時化に際し、都内除く南関東地区に04が当てられた<日本における市外局番の変更>。
  81. ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』51頁 川崎044(1974年2月23日市内局番3桁化21→211、28→288、72→722、82→822、91→911)、日吉0446(1966年7月10日044-61に変更→1990年10月1日、現行の045-561に変更)、中原0447(1966年12月4日044-72に変更)、溝ノ口0448(1964年10月25日044-82)に変更、登戸0449(1963年12月8日044-91に変更。1965年12月12日柿生交換局開局につき自動即時化044-98、1965年11月26日登戸局百合丘分局開設につき自動即時化044-96)、横浜045、戸塚04692(手動即時、1962年3月11日自動即時化045-88に変更)、武蔵野三鷹0422、田無0421、武蔵府中04236、調布0424、八王子0426、青梅0428、町田04274、相模原(後の橋本分局)0427、小田原0465、国府津04650(※1963年10月1日、0465-47に変更)、箱根0460、湯河原04606、厚木0462(※1963年12月5日ダイヤル自動即時化)、大和0462(※1964年2月23日ダイヤル自動即時化)、煤ヶ谷046288(手動即時)、藤沢0466、鎌倉0467、茅ケ崎04670、横須賀0468、三浦04688、逗子04693、大磯・二宮・秦野0463、西秦野0463-01、平塚0463(※1964年5月31日ダイヤル自動即時化)、川口0482、浦和0486、越谷0489、市川0473、松戸04739、船橋0474、千葉0472、野田04712、柏04716、名古屋052、大阪06となった。
  82. ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』50頁   小田急相模原駅周辺・例①04274-4xxx、例②04274-1xxx。原町田・相模大野駅周辺・例❶04274-20xx、例❷04274-2xxx、例❸04274-3xxx。
  83. ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』p57 特殊番号(非自動化地域への通話)103・108(受話器を取り103ないし108をダイヤルし交換手に相手の電話番号を告げ、電話を切らずに待つ・手動即時通話)、106(受話器を取り106をダイヤルし交換手に相手の電話番号を告げ、一旦電話を切って待つ・手動待機通話)
  84. ^ 例①旧表記04274-4xxx→新表記0427-22-4xxx、例②例旧表記04274-1xxx→新表記・0427-22-1xxx、例③旧表記04274-20xx→新表記0427-22-20xx、例④旧表記04274-2xxx→新表記0427-22-2xxx、例⑤旧表記04274-3xxx→新表記0427-22-3xxx。
  85. ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』50頁 相模原市の町田局管内を除く、旧・相模原局(後の橋本分局・市外局番0427)外、電話交換業務を受託していた郵便局を統合した新・相模原電報電話局開局につき市内局番設定(52-0xxx<上溝郵便局管内>・52-1xxx<麻溝郵便局管内>・52-2xxx<淵野辺郵便局管内>・52-3xxx<南堺郵便局管内>・72<橋本、相原、下九沢、上九沢>)。同時に町田局市外局番04274を相模原局と同じ0427に変更、市内局番22を設定。相模原局‐町田局間、準市内扱いで単一料金にて通話可能となる。※1964年1月30日当時。
  86. ^ 例①0427-22-4xxx→0427-44-4xxx、例②0427-22-1xxx→0427-44-1xxx、例③0427-22-20xx→0427-42-20xx、例④0427-22-2xxx→0427-42-2xxx、例⑤0427-22-3xxx→0427-42-3xxx ※1969年2月当時。
  87. ^ 座間町(相模台の町田電報電話局管内・栗原の厚木電報電話局管内を除く)、相模原市新戸全域、磯部・新磯野の大部分。同時に、座間町内の町田局・大和局に収容されていた165回線を座間局に振替収容した。※1965年当時。『相模原津久井・町田の電信電話史』p56・p139
  88. ^ 例①旧表記・座間xx番→新表記・0462-51-00xx、例②旧表記・座間xxx番→新表記・0462-51-0xxx、例③旧表記・座間1xxx番→新表記・0462-51-1xxx。『座間広報』第82号 昭和40年5月20日発行p3
  89. ^ 1972年4月栗原駐在所と共に、相模台派出所・栗原派出所に昇格。『座間広報』第5号 昭和47年3月1日発行p1
  90. ^ 2025年2月27日、橋梁に刻印確認。

出典

[編集]
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  4. ^ NTT東日本-南関東 東京事業部 東京西支店管轄
  5. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
  6. ^ NTT東日本-南関東 神奈川事業部 神奈川西支店管轄
  7. ^ 座間市字概略図”. のうかる. 2016年12月7日閲覧。
  8. ^ 相武台団地入口信号ダイエー角から相模原市行政境界迄の細い街路。想い出の座間 人々の経済生活編-麦播きに行く芝原百姓、場所は広野台1丁目の相武台団地入口付近。昭和30年ごろ。”. 座間市. 2025年9月24日閲覧。「相模銀座」・通称(森川通り)の歴史-小田急相模原周辺広域航空写真 1955年(昭和30年)-”. さがみパらねっと. 2018年11月19日閲覧。
  9. ^ 小松原入口交差点の土地。『座間の地名 執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行』p37。想い出の座間 戦後編-小松原入口。行政道路と辰街道との交差点付近。道路右側が相模が丘、左側が広野台。周囲は畑のほかなにもない。昭和30年ごろ。”. 座間市. 2025年9月24日閲覧。
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関連項目

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