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黒井和男

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黒井 和男(くろい かずお、1938年7月7日 - )は、日本映画プロデューサーキネマ旬報社角川映画の元社長、シネマ・インヴェストメントの元会長。黒井オフィス代表。

本名は土橋寿男[1]。父親の土橋治重は、ジャーナリスト、詩人、作家[2]

概要

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日本大学藝術学部映画学科卒業後、株式会社興行通信社に入社した。映画の配給・興行に精通し、映画プロデューサー・コーディネーターなどで数多くの映画製作に携わる。

また、白井佳夫時代の『キネマ旬報』に業界記事の執筆を依頼され、本名では問題があると、白井の妻の名前にちなんで「黒井和男」というペンネームをつける[3]。のち1973年ごろから[4]、白井とのコンビ「ビアンコ・エ・ネーレ」で海外に行き、現地の映画情報を伝える記事を作る[5]

1978年の白井のキネマ旬報社の退社後に、編集部に入り、編集長となる。のちキネマ旬報社の社長となり、社員の待遇の改善を考え、『刑事物語』シリーズなど自社での映画製作に乗り出す[6]

オーナーであった上森子鉄が1989年に死去したことをうけ、1991年にキネマ旬報社をセゾングループに譲渡して編集長を退任[7]。翌1992年、キネマ旬報社の社長からも退く[8]

主な作品に『刑事物語』シリーズ(1982年 - 1987年)、『南極物語』(1983年)、『瀬戸内少年野球団』(1984年)、『写楽』(1995年)、『月とキャベツ』(1996年)、『着信アリ』(2004年)、『妖怪大戦争』(2005年)、『戦国自衛隊1549』(2005年)、『バッテリー』(2006年)、『犬神家の一族』(2006年)など。

略歴

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  • 1973年 - 有限会社黒井事務所を設立
  • 1977年 - 株式会社キネマ旬報社に入社、取締役編集長に就任
  • 1981年 - 同社代表取締役社長に就任
  • 1992年 - 株式会社西友顧問、セゾングループ映像担当に就任
  • 1997年 - 株式会社キネマ旬報社の代表取締役社長に復帰
  • 2002年 - 株式会社角川大映映画(のちの角川映画株式会社)代表取締役社長に就任
  • 2008年 - シネマ・インヴェストメント株式会社の代表取締役会長に就任
  • 2010年 - 株式会社黒井オフィスを設立

フィルモグラフィー

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製作

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総合プロデュース

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プロデュース

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企画

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監修

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制作関連その他

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脚本

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  • 刑事物語2 りんごの詩 (1983年)
  • ヨーロッパ特急 (1984年)
  • 刑事物語3 潮騒の詩 (1984年)
  • 刑事物語4 くろしおの詩 (1985年)

著書

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  • 日本映画・テレビ監督全集 キネマ旬報社 1988/12/1

脚注

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  1. ^ 『キネマ旬報の100年』(キネマ旬報社)P.72
  2. ^ 『キネマ旬報の100年』(キネマ旬報社)P.145
  3. ^ 『キネマ旬報の100年』(キネマ旬報社)P.73
  4. ^ 『キネマ旬報の100年』(キネマ旬報社)P.133
  5. ^ 『キネマ旬報の100年』(キネマ旬報社)P.73
  6. ^ 『キネマ旬報の100年』(キネマ旬報社)P.135
  7. ^ 『キネマ旬報の100年』(キネマ旬報社)P.137
  8. ^ 『キネマ旬報の100年』(キネマ旬報社)P.137
  9. ^ 「本当に怖いのは幽霊よりも人間」霊感芸人やジミー大西が『恐怖体験』をガチ告白|映画『fuji_jukai.mov』(フジジュカイ ドット エムオーブイ)特別企画”. よしもとニュースセンター (2016年9月30日). 2017年7月2日閲覧。

関連項目

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