黒住宗忠
黒住 宗忠 | |
---|---|
別名 | 左之吉、右源次、左京 |
個人情報 | |
生誕 |
黒住 権吉 安永9年11月26日(1780年12月21日) |
死没 |
嘉永3年2月25日(1850年4月7日) 備前国御野郡中野村 |
宗教 | 黒住教 |
子供 | 長男:黒住宗信 |
両親 |
父:黒住宗繁 母:つた |
別名 | 左之吉、右源次、左京 |
黒住 宗忠(くろずみ むねただ、安永9年11月26日〈1780年12月21日〉 - 嘉永3年2月25日〈1850年4月7日〉)は、日本の神道家。教派神道黒住教開祖。備前国出身。家職の禰宜を継いでからは、左京の名を称している[1][2]。
生涯
[編集]前半生
[編集]安永9年(1780年)11月26日の冬至の日に、備前国御野郡中野村(現在の岡山県岡山市北区上中野)の今村宮に仕える禰宜の家に三男として生まれる[3][4]。母・つたの実家も長瀬家も白鬚宮(岡山市北区中仙道)の神職の家だった[5]。
宗忠は幼名を権吉(ごんきち)といい[6]、備前藩から孝行息子として表彰されるほどの親孝行であったといい、「黒住の孝行息子」と周囲からあだ名されたという。寛政6年(1794年)に元服し左之吉と称する[6]。文化元年(1804年)4月、次兄・猪平治が死去したため、黒住家の跡取りとなり、右源次と改名る[7]。文化7年(1810年)に父が隠居し、跡目を継ぐ[1]。
天命直授
[編集]文化9年(1812年)8月、宗忠の両親はともに「痢疾」を患い、8月28日に母・つたが、9月5日に父・宗繁が死去した[8]。一時に両親を失った宗忠は、極度の絶望状態に陥り、やせ衰えて行く中で翌年の11月頃には自身も肺結核と思われる病となって寝込んでしまう[9][2]。
文化11年(1814年)正月19日、宗忠の病はいよいよ重く、医者もさじを投げる状態だったが、宗忠は心が落ち込んだことで病気となったのだから心持ちを陽気にすれば病気は治るのではないか、どうせ長くないのであればそうして心を養うべきだと考え、天恩のありがたさに心を向けると、病気は軽くなった[10]。さらに3月19日に入浴して日拝することを望み、これを行うと病はいよいよ快方に向かった[11]。11月11日、宗忠が冬至の朝の太陽を浴び祈りを捧げていると、太陽の陽気が身体全体に満ちわたるような感覚を得た[12]。この「天命直授」の体験を宗忠は天照大神と同魂同体となったのだと理解し、宗教的活動を開始した[13]。なお、この3段階の経験が11月11日の一日の間に生じた、とされることもある[13]。
後半生
[編集]以後、様々な託宣や病者の救済を行いながら、37年にわたって各地で布教活動を続けた[2]。最初の門人は文化12年(1815年)正月に神文を捧げて入門した近所の小野栄三郎であるとされる[14]。宗忠は天照大神の信仰を口頭で布教するほかに、まじないによる病気の治療を行った[15]。
文政7年(1824年)伊勢参宮の途上京都で吉田家から禰宜職継承の正式な裁許を得た[1]。文政8年(1825年)から同11年(1828年)にかけて一千日参籠を行っている[16]。
天保12年(1841年)隠居して長男・宗信に跡を継がせた[17]。また天保14年(1843年)今村宮の禰宜職も宗信に譲った[17]。嘉永元年(1848年)居宅を改築し竣工[18]。居宅兼布教所として建てられた建物は現在、大元宗忠神社教祖記念館として登録有形文化財となっている[19]。
嘉永2年(1849年)11月に病気となり、同月17日のものが最後の講釈となった[20]。翌嘉永3年(1850年)2月25日死去[20]。享年71[2]。
没後
[編集]宗忠の死後、門人たちが中国地方での布教につとめ、さらに赤木忠春らが上京し布教に加えて神道の権威とされた吉田家に働きかけを行ったことで、嘉永4年(1851年)に霊神号、さらに明神号を許された[21]。さらに安政3年(1856年)3月8日に「宗忠大明神」の神号が授けられ、文久2年(1862年)2月に京都神楽岡に宗忠神社が創建された[21]。公家の中に宗忠に入信する者が多く、信奉者としては九条尚忠や二条斉敬のほか、文久2年(1862年)3月2日付の神文が現存する三条実美が知られる[21]。
宗忠神社は慶応元年(1865年)4月18日、孝明天皇によって勅願所となり(孝明天皇が定めた勅願所は宗忠神社のみである)、翌年2月7日従四位下の神階を宣下された[2]。
また宗忠の郷里岡山に宗忠神社が創建されたのは明治18年(1885年)のことである[22]。
人物
[編集]
- 生涯に享和3年(1803年)、文政7年(1824年)、天保2年(1831年)、天保4年(1833年)、天保6年(1835年)、弘化2年(1845年)の6度の伊勢神宮参宮をしている[23]。
- 「日日家内心得之事」の第一条で「神国の人に生れ常に信心なき事」を戒めているが、第二条では「腹を立て物を苦にする事」を掲げており、「けかれは気かれなり。それゆえ腹を立て物を苦にするを穢れの第一とするなり」と書簡に残しているように心を養うことを重視した[24]。同三条では「己が慢心にて人を見下す事」を挙げ、門人の慢心を戒めた逸話も多く残る[25]。同七条では「日々有難き事を取外す事」を戒め、宗忠は「有難き又面白き嬉しきと みきをそのうぞ誠成りけれ」という歌を残し毎朝有難いと口に出すことを忘れなかったなど、天命への感謝の念を常に持ち「有難い」という言葉でそれを表現した[26]。
弟子
[編集]弘化4年(1847年)に時尾宗道が記した『門人名所記』では、主立った門人のみを記したとされているが、そこには千人以上の名が見える[27]。その中には岡山藩や生坂藩、さらには姫路藩や三日月藩の武士の名前も確認できる[28]。宗忠の多くの弟子の中でも特に以下の6名を六高弟と呼ぶ[29]。
- 石尾乾介(1775 - 1859) - 岡山藩士、家禄140石[30]。正式な弟子入りは文政4年(1821年)のことで、宗忠から江戸詰の彼に送った手紙は100通以上が残る[30]。
- 河上忠晶(1795 - 1862) - 岡山藩の儒臣[31]。母・艶子の片目が失明したことをきっかけに宗忠のもとに通うようになり、宗忠の講釈にのめり込むのとともに母の目もよくなり、文政5年(1822年)閏正月に正式に入門した[31]。弟子に牧野権六郎がいる[31]。
- 時尾宗道(1817 - 1862) - 備前国邑久郡豊橋村の農家の出身[32]。大病を治してもらったことがきっかけとなり弘化元年(1844年)に入門[32]。
- 赤木忠春(1816 - 1865) - 美作国久米南条郡八出村の庄屋の出身[33]。眼病を患い失明し、弘化2年(1845年)11月、宗忠の講釈を聞いているうちに快方に向かったことから即座に入門[33]。現在の久米南町で神社に祭祀されている[33]。
- 星島良平(1835 - 1878) - 備前天城藩士。母・宮子が入門していたため、天保14年(1843年)に入門した[34]。天城藩の藩校・桜山学校の教官などをつとめた後、明治7年(1874年)ごろから黒住教の仕事に従事し教書の編集などに努めた[34]。
- 森下景瑞(1824 - 1891) - 岡山藩士[35]。弘化元年(1844年)に入門[35]。大分県令などを勤めたのち、黒住教の副管長として教団の基礎確立に尽力した[35]。
系譜
[編集]- 祖父・黒住宗近
- 祖母・市(今村氏)
- 父・宗繁
- 母・たつ(長瀬氏)
- 兄・猪之介
- 姉・熊
- 兄・猪平治
- 妻・いく(森治氏)
- 長女・こま(後にしか・とらと改名)
- 次女・つち(後になか・てると改名)
- 三女・さの(後にとめと改名)
- 長男・宗信(2代教主)
- 宗信の妻・梶(林氏)
- 孫・宗篤(3代教主・初代管長)
- 曾孫(宗篤の子)・宗子(4代教主・3代管長)
- 玄孫(宗子の子)・宗和(5代教主・4代管長)
- 来孫(宗和の子)・宗晴(6代教主)
- 玄孫(宗子の子)・宗和(5代教主・4代管長)
- 曾孫(宗篤の子)・宗子(4代教主・3代管長)
- 孫・宗敬(2代管長)
- 孫・宗篤(3代教主・初代管長)
脚注
[編集]- ^ a b c 原 1960, p. 199.
- ^ a b c d e 『太陽の神人 黒住宗忠―その超逆転発想は、激動の時代を生き抜く処方箋』 : 著者: 山田雅晴、ISBN 4884814835
- ^ 『生命(いのち)のおしえ―民族宗教の聖典・黒住教』 : 東洋文庫 319。道歌と書簡集、黒住宗忠 (村上重良校注) 、ISBN 4582803199
- ^ 原 1960, p. 1.
- ^ 原 1960, p. 2.
- ^ a b 原 1960, p. 198.
- ^ 原 1960, pp. 5, 198.
- ^ 原 1960, p. 7.
- ^ 原 1960, pp. 7–8, 199.
- ^ 原 1960, p. 9.
- ^ 原 1960, pp. 9–10.
- ^ 原 1960, pp. 10–11.
- ^ a b 原 1960, pp. 11–12.
- ^ 原 1960, pp. 12–13.
- ^ 原 1960, pp. 13–14.
- ^ 原 1960, pp. 24–26.
- ^ a b 原 1960, pp. 155–156.
- ^ 原 1960, pp. 160–161.
- ^ 大元宗忠神社教祖記念館(旧布教所兼主屋) - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ a b 原 1960, p. 163.
- ^ a b c 原 1960, pp. 185–190.
- ^ 原 1960, pp. 190–191.
- ^ 原 1960, pp. 33–34.
- ^ 原 1960, pp. 44–53.
- ^ 原 1960, pp. 53–57.
- ^ 原 1960, pp. 147–153.
- ^ 原 1960, pp. 166–167.
- ^ 原 1960, pp. 167–168.
- ^ 原 1960, p. 168.
- ^ a b 原 1960, pp. 168–172.
- ^ a b c 原 1960, pp. 172–174.
- ^ a b 原 1960, pp. 174–176.
- ^ a b c 原 1960, pp. 176–177.
- ^ a b 原 1960, pp. 177–180.
- ^ a b c 原 1960, pp. 180–181.
- ^ 原 1960, pp. 196–197.
参考文献
[編集]- 『生命(いのち)のおしえ―民族宗教の聖典・黒住教』 : 東洋文庫 319。道歌と書簡集、黒住宗忠 (村上重良校注) 、ISBN 4582803199
- 『太陽の神人 黒住宗忠―その超逆転発想は、激動の時代を生き抜く処方箋』 : 著者: 山田雅晴、ISBN 4884814835
- 原敬吾『黒住宗忠』吉川弘文館〈人物叢書〉、1960年3月5日。
- 新装版:ISBN 4642050892
![]() |
- 『哲人宗忠』: 著者: 延原大川、ISBN 4896190742
- 『眞人宗忠』:著者:延原大川
- 『日本神人伝―日本を動かした霊的巨人たちの肖像』: 著者: 不二龍彦、ISBN 4054013899
- 『近代日本霊異実録』 : 写本のみ伝わってきた「黒住教幽冥談」を収録、著者: 笠井鎮夫
- 『宗忠講話』:「黒住教読本」(上・下)の合本に「教祖神讃詩」(川上忠晶撰)「教祖宗忠神小傳」(星島良平述)を加えて編集刊行したもの、著者:河本一止(昭和33年3月5日発行、大道社刊)
|
|
|